『源氏物語』の紫式部と、『枕草子』の清少納言。平安時代を代表する二人の女性作家は、しばしば「ライバル」「仲が悪かった」と語られます。そのイメージのもとになっているのが、紫式部が『紫式部日記』に書き残した、清少納言への厳しい批判です。
しかし、二人が宮中に仕えた時期は重なっておらず、実際に顔を合わせることはなかったと考えられています。この記事では、日記に書かれた内容と、二人の関係をめぐる説を、辞典や研究者の解説をもとに整理します。
結論:仲が悪かったのではなく、紫式部が一方的に批判した
二人の関係について、確認できることをまとめると次のようになります。
- 紫式部は『紫式部日記』の中で、清少納言を名指しで厳しく批判している
- 一方、『枕草子』には紫式部についての記述は見られず、清少納言が紫式部に反論した記録も残っていない
- 二人が宮中に仕えた時期は重ならず、出仕先で顔を合わせることはなかったと考えられている
つまり、「二人が張り合っていた」というよりも、紫式部の側から一方的に批判の言葉が書かれたというのが実際のところです。なぜ紫式部がそこまで書いたのかについては、いくつかの説があります。
紫式部と清少納言、それぞれの生涯は人物ページ紫式部清少納言で紹介しています。
二人が仕えた后と、宮仕えの時期
定子に仕えた清少納言
清少納言は、一条天皇の中宮・藤原定子に仕えた女房です。定子は藤原道隆の娘で、清少納言が仕え始めたのは993年(正暦4年)ごろとされています(992年とする説もあります)。
しかし995年に父の道隆が亡くなると、定子の一族は勢いを失っていきます。翌996年には、定子の兄の藤原伊周・隆家が花山法皇に矢を射かけた事件で処分を受け、定子もいったん出家しました。この時期、清少納言には「道長の側に通じている」といううわさが立ち、長く宮中を離れて里にこもっていたこともあったと、辞典は伝えています。
定子は長保2年(1000年)12月に亡くなりました。清少納言はその後まもなく宮仕えを退いたと考えられていますが、退いた時期についてははっきりしていません。
彰子に仕えた紫式部
一方の紫式部は、藤原道長の娘で、一条天皇の中宮となった藤原彰子に仕えた女房です。彰子は1000年に中宮となり、このとき定子は皇后となって、一人の天皇に二人の后が並ぶ形になりました。
紫式部が彰子のもとに出仕したのは、1005年(寛弘2年)または1006年(寛弘3年)の年末とされています。
時期が重ならない二人
こうして並べてみると、清少納言が定子に仕えていたのは990年代、紫式部が彰子に仕え始めたのは1005年ごろです。国立国会図書館のレファレンス協同データベースに登録された宮城県図書館の回答でも、研究書を引いて「紫式部と清少納言が出仕先で顔を合わせることはなかったと考えられます」と説明されています。
ただし、二人が一度も会ったことがないと証明する史料があるわけではありません。「宮仕えの時期が重ならず、宮中で同僚として接することはなかったと考えられる」というのが、確かに言える範囲です。
『紫式部日記』には何が書かれているのか
清少納言への批判
問題の一節は、『紫式部日記』のうち、宮中の女房たちを批評した部分にあります。書き出しは次のとおりです。
「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。」
紫式部はこう書き、清少納言のことを「得意顔をしてたいへんな人だった」と評しています。続けて、利口ぶって漢字(真名)を書き散らしているけれど、よく見ればまだ足りないところが多い、と学識の浅さを指摘します。さらに、人と違ったことをしようと好む人は、必ず見劣りがして行く末はよくない、とまで書いています。
日記が書かれたのは1010年ごろとされ、清少納言が宮仕えを退いてから、10年ほどたってからのことでした。
なお、この部分の本文には伝わる写本によって違いがあり、「まだいと足らぬこと多かり」とする本文と「まだいと堪へぬこと多かり」とする本文があります。
批判されたのは清少納言だけではない
日記のこの部分では、清少納言だけでなく、和泉式部和泉式部など、ほかの女性たちについての人物評も書かれています。
また、この批評の部分が本来の日記の一部だったのか、別の文章が紛れ込んだものなのかについては、研究者の間でも議論があり、結論は出ていません。
『紫式部日記』そのものを読んでみたい方には、次の本があります。
紫式部はなぜ清少納言を批判したのか
紫式部がなぜ清少納言をこれほど厳しく書いたのか、はっきりした理由は日記に書かれていません。ここでは、研究者が挙げている主な説を紹介します。いずれも説であり、確定したものではありません。
説1:『枕草子』に夫やいとこのことを書かれたから
『枕草子』には、派手な装束で御嶽(吉野の金峰山)に参詣した人物の話が書かれています。この人物は、のちに紫式部の夫となる藤原宣孝と考えられています。また、『枕草子』には紫式部のいとこである藤原信経が、漢字の筆跡などを笑われる場面もあります。
身内のことを『枕草子』に書かれたのを紫式部が快く思わず、日記に酷評を残したのではないか、という説があります。ただし、宣孝の話は紫式部と結婚する前のことで、悪意をもって書かれたものではないとして、この説に否定的な研究者もいます。
説2:定子と彰子、仕える后の立場の違い
もう一つは、仕える后の立場の違いに理由を求める見方です。紫式部は道長の娘・彰子に仕える女房でした。一方の清少納言は、亡き定子の側の文化を代表する存在でした。そのため紫式部は、彰子に仕える立場から清少納言を批判したのではないか、と考える研究者もいます。
清少納言と紫式部の二人をテーマにした解説書には、次の一冊があります。
「ライバル」というイメージはどこから来たのか
辞典では、二人は「並び称される」「対照的」な存在として紹介されています。『枕草子』の明るく機知に富んだ世界と、『源氏物語』の深く沈んだ世界は、長く比べられてきました。
「ライバル」「犬猿の仲」というイメージは、こうした比較と、『紫式部日記』の強い言葉が結びついて広まったものといえます。実際には、宮中で張り合った記録はなく、清少納言の側からの言葉も残っていません。二人の関係は、紫式部の日記の一節から読み取れる「一方通行の評価」だったと考えるのが自然でしょう。
もっと知りたい人へ
- 紫式部の生涯は紫式部の人物ページ、清少納言の生涯は清少納言の人物ページで紹介しています。
- 同じく『紫式部日記』で人物評が書かれた和泉式部については、和泉式部のページをご覧ください。
- 平安時代のほかの人物は、平安時代の人物一覧から探せます。
参考文献
本文の根拠とした資料
- 『日本大百科全書(ニッポニカ)』『改訂新版 世界大百科事典』『ブリタニカ国際大百科事典』『山川日本史小辞典』ほか「紫式部」「清少納言」「紫式部日記」「枕草子」「藤原定子」「藤原彰子」「藤原宣孝」(コトバンク掲載)
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース紫式部と清少納言に関する事例(宮城県図書館)
- 赤間恵都子「ことばのコラム」(三省堂辞書ウェブサイト、2009年)
- 『紫式部日記』『枕草子』本文(バージニア大学図書館 Japanese Text Initiative 公開本文)
※ いずれも2026年10月に閲覧。
関連書籍(このページでは内容を引用していません)
- 丸山裕美子『清少納言と紫式部 和漢混淆の時代の宮の女房』(日本史リブレット、山川出版社)
- 『紫式部日記』(ビギナーズ・クラシックス 日本の古典、角川ソフィア文庫)
- 『枕草子』(ビギナーズ・クラシックス 日本の古典、角川ソフィア文庫)