津田梅子はなぜ6歳でアメリカへ渡った?留学の理由と帰国後の苦悩のイメージ

津田梅子はなぜ6歳でアメリカへ渡った?留学の理由と帰国後の苦悩

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この記事の人物:津田梅子

津田梅子は1871年(明治4年)、北海道開拓使が派遣した5人の女子留学生の一人として、岩倉使節団とともにアメリカへ渡りました。このとき満6歳(数え年で8歳)で、5人の中で最年少でした。

まだ幼い少女が、なぜ海を渡ることになったのでしょうか。この記事では、女子留学生が派遣された経緯と、梅子が11年後に帰国してから直面した苦労を、津田塾大学や国立国会図書館などの資料をもとに解説します。

結論:開拓使の女子留学生に選ばれ、岩倉使節団とともに渡米した

梅子がアメリカへ渡ったのは、明治政府の北海道開拓使が、女子をアメリカへ留学させる計画を立てたためです。国立公文書館の解説によると、この派遣は当時の開拓使次官・黒田清隆の意見によって決まりました。

梅子の父・津田仙は、同じ1871年に開拓使の嘱託となっていた人物です。ただし、梅子がどのような経緯で留学生に加わったのか、誰が候補に推したのかについては、資料によって説明が異なり、詳しいことははっきりしていません。

梅子の生涯全体は、人物ページ津田梅子の人物ページで紹介しています。この記事では、「なぜ6歳で留学したのか」と「帰国後に何に苦しんだのか」に絞って掘り下げます。

女子留学生はどのように送り出されたのか

岩倉使節団とともに出発した5人の少女

1871年12月、女子留学生たちは岩倉具視を大使とする使節団とともに横浜を出発し、翌1872年1月にサンフランシスコに着きました。選ばれたのは、上田悌子・吉益亮子・山川捨松・永井繁子・津田梅子の5人です。

山川捨松は、のちに大山巌と結婚して大山捨松となり、梅子の生涯の友人として学校づくりを支えた人物です大山捨松。一方、吉益亮子は眼の病気のため、翌年には帰国しています。

「6歳」という年齢について

梅子は元治元年12月3日、西暦では1864年12月31日に江戸で生まれました。出発した1871年12月の時点で満6歳です。

ただし、梅子の年齢の書き方は資料によって異なります。津田塾大学や国立公文書館は「満6歳」としていますが、国立国会図書館「近代日本人の肖像」や多くの辞典は数え年で「8歳」と記しています。また、「7歳」とする辞典もあります。これは年齢を満年齢で数えるか、数え年で数えるかの違いによるものです。

父・津田仙はどんな人物だったのか

梅子の留学を考えるうえで欠かせないのが、父・津田仙の存在です。

仙は1837年、佐倉藩士の家に生まれ、のちに幕臣・津田家の養子となりました。幕府の外国奉行のもとで通訳を務め、1867年には幕府の使節の随員としてアメリカを訪れています。明治になってからは開拓使の嘱託となり、のちに農業の学校「学農社農学校」を開くなど、西洋の農業の普及に力を注ぎました。キリスト教の信者でもありました。

自らアメリカを見てきた父のもとで育ったことが、梅子が留学生に加わる背景にあったと考えられます。ただ、仙がどこまで娘の留学を主導したのかについて、はっきりと記した公的な資料は確認できませんでした。

アメリカでの11年間

アメリカに着いた梅子は、ワシントン近郊のジョージタウンに住むランマン夫妻の家に預けられました。国立国会図書館国際子ども図書館の解説によると、渡米した当時の梅子は、英語を2、3語知っている程度だったといいます。

梅子はランマン夫妻のもとで暮らしながら学校に通い、1873年にはキリスト教の洗礼を受けました。その後、アーチャー・インスティチュートという学校を卒業し、フランス語やラテン語、数学、物理学、天文学なども学んでいます。

こうして梅子は、少女時代のほとんどをアメリカで過ごしました。

帰国後の苦悩:言葉の壁と、女性が働く場のなさ

日本語であいさつができなかった

1882年(明治15年)11月、梅子は山川捨松とともに、11年ぶりに日本へ帰ってきました。このとき満17歳です。

津田塾大学の資料によると、帰宅して母や弟妹たちに会っても、梅子は日本語であいさつをすることができず、父の仙や姉が通訳をしたといいます。辞典にも、梅子が日本語を忘れており、日本の生活になじむのに苦労したことが記されています。幼いころから11年間をアメリカで過ごした梅子にとって、日本での生活は、津田塾大学の言葉を借りれば「カルチャーショックの連続」でした。

学んだことを生かせる仕事がなかった

梅子がもっとも悩んだのは、アメリカで学んだことを生かして働ける場がなかったことでした。当時の日本では、女性が教育を受けて専門的な仕事につく道はごく限られていました。国の派遣で留学したにもかかわらず、学んだことを生かせる仕事は見つかりませんでした。

華族女学校の教師となる

梅子は英語を教える仕事などを経て、1885年、伊藤博文の推薦により、華族女学校で英語を教えることになりました(津田塾大学の年表では、教授となったのは1886年とされています)。

ようやく得た教職でしたが、梅子は女性がより高い水準の教育を受けられる場が必要だと考えるようになっていきます。

梅子の生涯と、女子教育にかけた思いをもっと詳しく知りたい方には、次の新書があります。

再留学と女子英学塾の創立

梅子は1889年に再びアメリカへ渡り、ブリンマー大学で生物学を学びました。在学中に指導教授と共同で行った研究は論文としてまとめられ、1894年にイギリスの学術誌に掲載されています。

1892年に帰国した梅子は、華族女学校での仕事を続けながら、自らの学校をつくる準備を進めました。そして1900年(明治33年)、東京の麹町区一番町に女子英学塾を開きます。最初の塾生は10人でした。この学校が、現在の津田塾大学の始まりです。

梅子は1929年(昭和4年)8月16日、鎌倉の別荘で亡くなりました。2024年7月から発行されている新しい五千円札には、梅子の肖像が使われています。財務省は、新しい紙幣の肖像に選んだ3人について、産業の育成や女性の活躍、科学の発展といった面から日本の近代化をリードし、大きく貢献した人物だと説明しています。

もっと知りたい人へ

参考文献

本文の根拠とした資料

  • 津田塾大学「津田塾の歴史」「沿革」、津田塾大学図書館デジタルアーカイブ
  • 国立国会図書館「近代日本人の肖像」津田梅子
  • 国立国会図書館国際子ども図書館「津田梅子」
  • 国立公文書館 デジタル展示(女子留学生の派遣に関する解説)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』『山川日本史小辞典』『日本人名大辞典+Plus』ほか「津田梅子」「津田仙」「吉益亮子」(コトバンク掲載)
  • 日本銀行「現在発行されている銀行券・貨幣」、財務省「よくあるご質問(新しい日本銀行券)」

※ いずれも2026年10月に閲覧。

関連書籍(このページでは内容を引用していません)

  • 高橋裕子『津田梅子 女子教育を拓く』(岩波ジュニア新書、岩波書店、2022年)
  • 大庭みな子『津田梅子』(朝日文芸文庫、朝日新聞社、1990年)
  • 久野明子『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松 日本初の女子留学生』(中公文庫)

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