紫式部

紫式部

平安時代中期を代表する女性作家・歌人。藤原彰子に仕えながら、世界的にも知られる『源氏物語』を書いた人物です。宮廷での人間関係や男女の感情を繊細に描き、約千年後の現在まで作品が読み継がれています。

時代:
平安時代
生没年:
970年代頃~1010年代頃
人物:
作家・歌人・女房

紫式部のおすすめ作品

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紫式部エピソード

どんな人物だったのか

紫式部は、平安時代の中頃に活躍した作家・歌人です。一条天皇の中宮・彰子に仕えた女房で、長編物語『源氏物語』の作者として知られています。本名は伝わっておらず、「紫式部」は宮中での呼び名です。「式部」は父の官職に由来し、「紫」は『源氏物語』の登場人物・紫の上にちなむという説があります。

生涯と転機

紫式部の父・藤原為時は、漢詩や漢文に優れた学者でした。『紫式部日記』には、弟が漢籍を習っているそばで聞いていた紫式部の方が先に覚えてしまい、父が「この子が男の子でなかったのが残念だ」と嘆いたという思い出が書かれています。当時、漢文は主に男性の学問とされていたため、この才能は後に彼女を悩ませることにもなりました。

20代の頃、越前国(現在の福井県)の国守となった父に同行し、都を離れて暮らした時期があります。都に戻った後、親子ほど年の離れた藤原宣孝と結婚し、娘の賢子を産みました。賢子は後に大弐三位という名で歌人として知られるようになります。

しかし結婚から数年で、夫の宣孝は亡くなりました。『源氏物語』は、この夫と死別した頃から書き始められたと考えられていますが、書き始めた時期ははっきりしていません。

印象的なエピソード

1005年か1006年頃、紫式部は藤原道長の娘で一条天皇の中宮である彰子のもとに仕えることになりました。物語の評判が道長の耳に届いたためともいわれています。

宮中では、漢文の知識を見せないように気を配っていたと『紫式部日記』に記されています。一条天皇が『源氏物語』を読み、「この作者は日本紀(日本書紀)をよく読んでいるようだ」と感心したところ、別の女房に「日本紀の御局」とあだ名をつけられてしまいました。紫式部はこれをわずらわしく感じ、屏風に書かれた漢字さえ読めないふりをしていたと書いています。一方で、彰子には人目につかないところで白居易の漢詩を講義していました。

日記には、宮中の女性たちへの率直な人物評もあります。特に、一条天皇の皇后・定子に仕えた清少納言については、得意げに漢字を書き散らしているが、よく見ると足りないところが多い、という趣旨の厳しい言葉を残しています。二人が宮中で一緒に仕えた時期はなかったと考えられており、直接の対立があったかどうかはわかっていません。

1008年の日記には、歌人の藤原公任が「このあたりに若紫はいらっしゃいますか」と声をかけてきた場面があります。これは『源氏物語』が当時すでに宮中で読まれていたことを示す記録とされ、この日にちなんで11月1日は「古典の日」と定められています。

その後と最期

彰子のもとでの出仕がいつまで続いたのか、また紫式部がいつ亡くなったのかは、はっきりしていません。1010年代の半ば頃までは記録から存在が確認できるとされていますが、没年については研究者の間でもさまざまな説があります。

この人物が今も語り継がれる理由

紫式部が書いた『源氏物語』は、約千年前に成立した長編物語で、人の心の動きを細やかに描いた作品として今も読み継がれています。多くの言語に翻訳され、世界でも広く知られています。また『紫式部日記』は、華やかな宮廷の内側と、そこに生きた一人の女性の思いを伝える貴重な記録です。「めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな」の歌は『百人一首』にも選ばれています。

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