和泉式部
平安時代を代表する女性歌人。恋愛の喜びや別れの悲しみなど、自らの感情を率直に表現した和歌で知られています。紫式部と同じ時代に宮廷で活躍し、『和泉式部日記』でも知られる女性です。
- 時代:
- 平安時代
- 生没年:
- 970年代頃~11世紀前半
- 人物:
- 歌人・女房
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和泉式部エピソード
どんな人物だったのか
和泉式部は、平安時代の中頃に活躍した女性歌人です。恋の喜びや悲しみ、深い孤独を、率直で情熱的な言葉で詠んだことで知られています。紫式部と同じ頃に中宮・彰子に仕え、平安時代を代表する歌人の一人に数えられています。
生涯と転機
和泉式部は、学者の家柄である大江雅致の娘として生まれました。生まれた年ははっきりせず、970年代頃と考えられています。
はじめに和泉守を務めた橘道貞と結婚し、娘の小式部内侍を産みました。「和泉式部」という呼び名は、この夫の官職に由来するとされています。
人生の大きな転機となったのは、冷泉天皇の皇子・為尊親王との恋でした。身分の大きく違う二人の関係は、当時の人々の噂の的になったといわれています。この恋をきっかけに、夫の道貞とは疎遠になり、親からも勘当されたと伝えられています。ところが為尊親王は、1002年に26歳の若さで亡くなってしまいました。
印象的なエピソード
為尊親王の死から約1年後、和泉式部のもとに、亡き親王の弟・敦道親王から便りが届きます。二人は歌を贈り合ううちに心を通わせていきました。この恋の始まりから、敦道親王の屋敷に迎えられるまでの約10か月間を描いたのが『和泉式部日記』です。
日記には、なかなか会えないもどかしさや、相手の気持ちを確かめ合うような歌のやり取りが数多く記されています。また、敦道親王が和泉式部を自分の屋敷に住まわせたことで、親王の妻が屋敷を出ていったことも書かれています。この作品の作者は和泉式部自身とするのが一般的ですが、別の人物が書いたとする説もあります。
しかし、敦道親王も1007年に27歳で亡くなりました。和泉式部は親王の死を悼む歌を数多く詠んでいます。わずか数年の間に、愛した二人の皇子を続けて失ったことになります。
その後と最期
その後、和泉式部は藤原道長に召され、中宮・彰子に仕えるようになりました。同じく彰子に仕えた紫式部は、日記の中で、和泉式部の歌の才能を認めながらも、その振る舞いには感心できない面があるという趣旨の評価を書いています。
やがて道長の家臣・藤原保昌と再婚し、夫の任地である丹後国へ下りました。歌人として知られた娘の小式部内侍は、母より先に若くして亡くなります。その悲しみを詠んだ歌も残されています。
晩年の様子や亡くなった年はわかっていません。全国各地に和泉式部の墓とされる場所や伝説が残っていますが、その多くは後世の伝承と考えられています。
この人物が今も語り継がれる理由
和泉式部の歌は、勅撰和歌集に二百首以上が選ばれており、女性歌人の中でも特に多い数です。「あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな」の歌は『百人一首』にも選ばれています。恋や別れ、喪失を自分の言葉で歌い続けた和泉式部の作品は、千年を経た今も多くの人の心に届いています。