楠木正成
楠木正成とは?
鎌倉時代末期から建武政権期の武将。河内国(現在の大阪府)を拠点とし、後醍醐天皇の倒幕運動に加わって、赤坂城・千早城で幕府の大軍を相手に戦いました。建武政権でも重く用いられましたが、1336年の湊川の戦いで足利尊氏の軍に敗れて亡くなりました。
- 時代:
- 鎌倉時代
- 生没年:
- 生年不詳~1336年
- 人物:
- 鎌倉時代末期~建武政権期の武将
楠木正成をもっと知りたい人へ
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楠木正成の生涯とエピソード
どんな人物だったのか
楠木正成は、河内国(現在の大阪府南部)を拠点とした武士です。生まれた年や家の出自にははっきりしない点が多く、幕府の支配に従わない「悪党」と呼ばれた勢力とする見方や、北条氏の家臣だったとする見方など、さまざまな説があります。
後の時代には「大楠公」と呼ばれ、敬われました。
生涯と転機
1331年、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとして兵を挙げると(元弘の乱)、正成はこれに応じて河内の赤坂城で兵を挙げました。『太平記』には、後醍醐天皇が夢のお告げによって正成を召し出したという話が記されていますが、これは物語としての色合いが強いものです。
赤坂城は幕府の大軍に攻められて落城しましたが、正成は城を脱出して姿を隠しました。
印象的なエピソード
1332年、正成は再び兵を挙げ、翌1333年には金剛山の千早城に立てこもって幕府の大軍と戦いました。『太平記』には、城壁から大石や丸太を落としたり、わら人形で敵をあざむいたりした奇策が描かれていますが、どこまで事実かはわかっていません。
ただ、正成が少ない兵で長く持ちこたえたことは、各地の反幕府勢力を勢いづけ、同じ1333年の鎌倉幕府の滅亡につながったと考えられています。
その後と最期
後醍醐天皇による建武の新政が始まると、正成は河内などの守護に任じられるなど、重く用いられました。しかし、1335年に足利尊氏が新政に背くと、正成は天皇方として戦いました。
1336年、九州から攻め上ってきた尊氏の大軍を、正成は摂津の湊川(現在の神戸市)で迎え撃ちましたが敗れ、弟の正季とともに自害したとされています。湊川へ向かう前に、子の正行と桜井の駅で別れたという「桜井の別れ」は有名ですが、これも『太平記』に描かれた場面で、史実かどうかは確かめられていません。
この人物が今も語り継がれる理由
正成は、最期まで天皇に尽くした忠臣として、江戸時代から明治時代にかけて特に高く評価されました。1692年には徳川光圀が湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を建て、明治時代には湊川神社が創建されています。
こうした人物像の多くは『太平記』によって形づくられたもので、史実の正成については今も研究が続けられています。
この人物をもっと知りたい人へ
正成の生涯は、学習まんがで流れをつかみ、研究者による新書で史実の姿を知るのがおすすめです。小説では、正成の生き方が物語として描かれています。正成を有名にした『太平記』の入門書もあわせて読むと、史実と物語の違いがよくわかります。このページの「おすすめ作品」で紹介しています。
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