徳川家光
徳川家光とは?
江戸幕府の3代将軍。2代将軍・徳川秀忠の子で、祖父は徳川家康です。武家諸法度を改めて参勤交代を制度として定めたほか、キリスト教の禁止や海外との交流の制限を強め、いわゆる鎖国体制を整えて、江戸幕府の支配の仕組みを固めた人物です。
- 時代:
- 江戸時代
- 生没年:
- 1604年~1651年
- 人物:
- 江戸幕府3代将軍
徳川家光をもっと知りたい人へ
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徳川家光の生涯とエピソード
どんな人物だったのか
徳川家光は、2代将軍・徳川秀忠と、正室の江(浅井長政の娘)との間に生まれたとされています。幼名は竹千代。兄が早くに亡くなっていたため、跡継ぎとして育てられました。乳母は、のちに大奥で大きな力を持つ春日局(お福)です。
家光は、江戸幕府の基本的な制度を整えた将軍として知られています。
生涯と転機
幼い頃、両親が弟の国松(のちの徳川忠長)をかわいがり、跡継ぎが弟になるのではないかといううわさがあったと伝えられています。春日局が駿府の家康に訴え、家康が竹千代を跡継ぎと定めたという話は有名ですが、後の時代の記録に見える話で、どこまで事実かについては議論があります。
1623年、家光は3代将軍となりました。ただし、1632年に父の秀忠が亡くなるまでは、秀忠が大御所として大きな権限を持っていました。
印象的なエピソード
家光が将軍として諸大名を前に「自分は生まれながらの将軍である」と述べたという逸話はよく知られていますが、これも後世の記録に残る話です。
秀忠の死後、家光は弟の忠長を改易し、忠長は1633年に幽閉先の高崎で自害しました。1635年には武家諸法度を改め、大名が江戸と領地を定期的に行き来する参勤交代を制度として定めています。
また、キリスト教の禁止を強め、1637年に起きた島原・天草一揆の後、1639年にはポルトガル船の来航を禁止しました。1641年にオランダ商館を長崎の出島へ移したことで、のちに「鎖国」と呼ばれる体制が整いました。
その後と最期
家光は祖父の家康を深く敬い、日光東照宮を大規模に造り替えました(寛永の大造替)。現在見られる豪華な社殿の多くは、この時に造られたものです。
1651年、家光は48歳で亡くなりました。遺言により、日光の家康の近くに葬られ、その霊廟は大猷院と呼ばれています。将軍職は子の徳川家綱が継ぎました。
この人物が今も語り継がれる理由
家光の時代に、参勤交代や対外関係の仕組みなど、江戸幕府の支配の土台となる制度がほぼ出そろいました。約260年続いた江戸幕府の安定を形づくった将軍として、日本史の中で重要な人物とされています。
この人物をもっと知りたい人へ
家光の生涯は、学習まんがの人物伝で流れをつかみ、研究者による伝記で詳しく知るのがおすすめです。弟・忠長との関係や、将軍家の後継ぎをめぐる問題に注目した本もあり、家光の別の一面が見えてきます。このページの「おすすめ作品」で紹介しています。
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