和宮
和宮とは?
江戸時代末期の皇女。名は親子内親王で、仁孝天皇の娘、孝明天皇の妹にあたります。公武合体政策のもとで14代将軍・徳川家茂に嫁ぎました。家茂の死後は静寛院宮と名乗り、戊辰戦争の際には徳川家の存続を朝廷に願い出たとされる人物です。
- 時代:
- 幕末・明治時代
- 生没年:
- 1846年~1877年
- 人物:
- 14代将軍・徳川家茂の正室
和宮をもっと知りたい人へ
※本欄にはプロモーションを含みます
和宮の生涯とエピソード
どんな人物だったのか
和宮は、仁孝天皇の皇女として1846年に生まれました。名は親子内親王で、孝明天皇の異母妹にあたります。
幼い頃には、有栖川宮熾仁親王と婚約していました。
生涯と転機
日米修好通商条約の調印などをめぐって、朝廷と幕府の関係は悪化していました。幕府は朝廷との結びつきを強めて立場を立て直そうとし(公武合体)、和宮を将軍の妻に迎えたいと願い出ました。
和宮は当初これを断ったとされますが、最終的に受け入れ、熾仁親王との婚約は解消されました。1861年に京都を出発し、1862年に14代将軍・徳川家茂と結婚しました。
印象的なエピソード
和宮は江戸城でも御所の風習を守って暮らしたため、大奥の女性たちや、家茂の養母にあたる天璋院(篤姫)とは、当初習慣の違いから対立もあったと伝えられています。
一方、同い年の家茂との夫婦仲はよかったとされています。家茂が上洛の際に和宮へのみやげとして西陣織を約束し、それが家茂の死後に届いたという話も伝えられていますが、細かな内容は伝承によるものです。
その後と最期
1866年、家茂は大坂城で21歳の若さで亡くなりました。和宮は出家して静寛院宮と名乗りました。
1868年に戊辰戦争が始まると、静寛院宮は朝廷側に徳川家の存続を願う手紙を送り、天璋院とともに徳川家のために力を尽くしたとされています。明治に入ってからは東京で暮らし、1877年に療養先の箱根で亡くなりました。増上寺に家茂と並んで葬られています。
この人物が今も語り継がれる理由
和宮は、幕末の公武合体の象徴として、政治の大きな流れの中で生きた皇女です。
有吉佐和子の小説『和宮様御留』では、和宮が替え玉だったという大胆な設定が描かれていますが、これは小説としての創作です。ドラマなどで描かれる篤姫との関係も、作品によって脚色が加えられています。
この人物をもっと知りたい人へ
和宮の生涯は、研究者による伝記で詳しく知ることができます。天璋院と和宮の二人に注目した新書を読むと、幕末の大奥と朝廷・幕府の関係がよくわかります。小説『和宮様御留』は、史実とは異なる設定を楽しむ作品として読むのがおすすめです。このページの「おすすめ作品」で紹介しています。
関連人物
和宮の関連漫画・小説・書籍
※本欄にはプロモーションを含みます。漫画・小説には創作や独自の解釈が含まれます