戦国時代を代表する大名・武田信玄には、跡継ぎと目されていた長男がいました。武田義信です。しかし義信は、謀反の疑いをかけられて幽閉され、1567年(永禄10年)に30歳で亡くなりました。
なぜ信玄は、跡継ぎであるはずの息子を退けたのでしょうか。この記事では、「義信事件」と呼ばれるこの出来事の経過と背景を、辞典や自治体の資料をもとに、確認できることと説が分かれることを分けながら解説します。
結論:謀反の疑いと、今川氏をめぐる路線の違い
義信が跡継ぎの座を失ったのは、父・信玄に対する謀反の疑いをかけられたためです。辞典類は、義信が父と「不和」になり、謀反の嫌疑で投獄(幽閉)されたと記しています。
親子が対立した背景としてよく挙げられるのが、駿河(現在の静岡県)の今川氏との関係です。義信の妻は今川義元の娘でした。今川氏が衰えていく中で、今川領をねらう信玄と、今川氏と結びついた義信との間で対立が生まれた、という見方が広く知られています。ただし、対立の原因をはっきりと記した確かな史料は限られており、背景については研究者の間でも議論が続いています。
信玄の生涯全体は、人物ページ武田信玄の人物ページで紹介しています。この記事では、義信をめぐる親子の対立に絞って掘り下げます。
武田義信とはどんな人物か
武田義信は、1538年(天文7年)に信玄の長男として生まれました。通称は太郎です。辞典では、信玄の「世継ぎ」となった人物と紹介されています。
義信の妻は、駿河の大名・今川義元の娘でした。当時、武田氏は今川氏と同盟を結んでおり、義信の結婚は両家の結びつきを示すものでした。
親子が対立した背景
桶狭間の戦いと今川氏の衰え
状況が大きく変わったのは、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いです。この戦いで今川義元が討ち死にすると、今川氏の勢いは衰えていきます。
上田市が運営する「生島足島神社文書」の解説サイトでは、信玄が今川領をねらうようになったことが、今川氏から妻を迎えていた義信との対立を生んだと説明されています。
川中島の逸話は軍記物によるもの
義信と信玄の不和については、1561年の第4次川中島の戦いでの義信の行動をめぐる話などが伝えられることがあります。しかし、こうした話は江戸時代にまとめられた軍学書『甲陽軍鑑』などの軍記物に見られるもので、史実として確かめられたものではありません。
義信事件の経過
謀反の発覚と重臣・飯富虎昌の死
義信の謀反が問題になったのは、1565年(永禄8年)ごろとされます。『山川日本史小辞典』は「65年(永禄8)長子義信がそむいた」と記しています。一方で、事件の発覚を前年の1564年(永禄7年)とする記録もあり、時期には説があります。
この事件では、武田家の重臣・飯富虎昌が、義信に謀反を勧めたとされて命を落としました。その時期や死に方は、資料によって「処刑」「自刃」と表現が分かれ、月日にも違いがあります。
甲府・東光寺への幽閉
義信自身は、甲府の東光寺に幽閉されました。東光寺は現在の山梨県甲府市にある臨済宗の寺院で、辞典にも「武田信玄の長男、義信が反逆罪で幽閉された地」と記されています。
家臣たちの起請文
事件のあと、武田家の家臣たちは、信玄に忠誠を誓う起請文(誓約書)を提出しました。1566年(永禄9年)と1567年(永禄10年)に長野県上田市の生島足島神社に納められた起請文は83通にのぼり、「生島足島神社文書」として国の重要文化財に指定されています。跡継ぎをめぐる事件で家臣団が動揺するのを、信玄が強く警戒していたことがうかがえます。
義信の最期
義信は1567年(永禄10年)10月19日、幽閉先の東光寺で亡くなりました。30歳でした。
死因については、資料によって書き方が分かれています。『日本人名大辞典』は「自刃」、『山川日本史小辞典』は信玄が「切腹させた」と記し、『日本大百科全書』や『世界大百科事典』は「刑死」と表現しています。甲府市の文化財の紹介では、東光寺に幽閉されて自害した義信の墓があると説明されています。義信が亡くなった詳しい状況については、はっきりしない部分が残っています。
東光寺は「甲府五山」の一つに数えられ、境内には義信の墓があります。東光寺の仏殿は国の重要文化財に指定されています。
義信の死が変えたもの
今川氏との同盟の破綻
義信が亡くなると、信玄は義信の妻を今川氏真(義元の子)のもとへ返し、今川氏との同盟関係を断ちました。そして翌1568年(永禄11年)の暮れ、信玄は駿河へ攻め込み、1569年には氏真を追放します。義信をめぐる問題は、武田家の外交の大きな転換と重なっていたのです。
跡継ぎとなった勝頼
義信に代わって武田家の跡継ぎとなったのが、信玄の四男・勝頼です。ただし、勝頼が跡継ぎに定まった時期は、1565年とする辞典と、義信が亡くなった1567年以後とする辞典があり、はっきりしません。いつ義信が正式に「廃嫡」されたのかも、確かなことは分かっていません。
1573年に信玄が亡くなると、勝頼が武田家を率いることになりました。
もっと知りたい人へ
- 武田信玄の生涯は、人物ページ武田信玄の人物ページで紹介しています。
- 信玄と川中島で戦った上杉謙信については、上杉謙信のページをご覧ください。
- 戦国時代のほかの人物は、戦国時代の人物一覧から探せます。
参考文献
本文の根拠とした資料
- 『日本人名大辞典+Plus』「武田義信」「飯富虎昌」(講談社、コトバンク掲載)
- 『日本大百科全書(ニッポニカ)』『改訂新版 世界大百科事典』『山川日本史小辞典』「武田信玄」「武田勝頼」(コトバンク掲載)
- 『デジタル大辞泉プラス』『日本歴史地名大系』「東光寺」(コトバンク掲載)
- 甲府市「甲府五山」「東光寺仏殿」
- 生島足島神社文書(上田市・iプラザうえだ)「信玄と長男義信の反目」「家臣団の団結強化のために起請文の提出へ」
※ いずれも2026年10月に閲覧。
関連書籍(このページでは内容を引用していません)
- 丸島和洋『武田勝頼 試される戦国大名の「器量」』(中世から近世へ、平凡社、2017年)
- 黒田基樹『武田信玄の妻、三条殿』(東京堂出版、2022年)
- 新田次郎『武田信玄』(文春文庫)