新選組の一番隊組長として知られる沖田総司は、若くして病に倒れた剣士として、今も多くの人をひきつけています。その死因は結核だったのでしょうか。何歳で、どこで亡くなったのでしょうか。そして、沖田総司の写真は本当に残っていないのでしょうか。
この記事では、辞典や自治体、国立国会図書館のレファレンス事例などをもとに、沖田総司の最期について確かめられることと、後世に広まった逸話とを分けて解説します。
結論:死因は肺結核とされ、慶応4年に江戸で亡くなった
- 死因:肺の病(肺結核)とされる。辞典は「結核により」「肺病により」などと記す
- 亡くなった日:慶応4年5月30日(1868年7月19日)
- 年齢:生まれた年に2つの説があるため、25歳とも27歳ともいわれる
- 場所:江戸の千駄ヶ谷とする説と、浅草の今戸とする説がある
- 写真:本人と確かめられた写真は見つかっていない
沖田総司の生涯全体は、人物ページ沖田総司の人物ページで紹介しています。この記事では、病と最期、そして容貌の謎に絞って掘り下げます。
死因は結核だったのか
辞典が記す「肺の病」
沖田総司の死因について、辞典類はそろって肺の病を挙げています。『日本人名大辞典』は「結核により」、『デジタル大辞泉』は「肺病により」、『世界大百科事典』は「悪化した肺患のため」と記しています。肺結核は当時「労咳」とも呼ばれ、有効な治療法のない病でした。
いつから病んでいたのか
病がいつ始まったのかは、はっきりしていません。『日本大百科全書』は、1867年(慶応3年)ごろから肺の病が進んだと記しています。
日野市観光協会が紹介している新選組のふるさと歴史館の企画展の解説でも、総司は1867年に幕臣に取り立てられたものの、「病気のため、若くして亡くなってしまいました」と説明されています。新選組が京都で活動していた時期の後半には、すでに病が重くなっていたと考えられます。
池田屋事件での喀血は本当か
沖田総司といえば、1864年(元治元年)の池田屋事件の最中に血を吐いて倒れた、という場面がよく知られています。辞典の中にも、池田屋事件のときに喀血して倒れたと書くものがあります。
一方で、『日本大百科全書』は病が進んだ時期を1867年ごろとしています。池田屋の時点で結核の症状が出ていたのか、倒れた原因が何だったのかについては、はっきりしたことは分かっていません。喀血の場面は、小説やドラマで繰り返し描かれてきたことで広く知られるようになった面もあり、史実として断定することはできません。
何歳で亡くなったのか
生まれた年に2つの説
沖田総司が生まれた年には、天保13年(1842)とする説と、天保15年(1844)とする説があります。『日本大百科全書』や『日本人名大辞典』は両方の説を挙げ、『世界大百科事典』や『デジタル大辞泉』は1844年としています。
享年が「25歳」とも「27歳」ともいわれる理由
亡くなったのは慶応4年5月30日(1868年7月19日)です。江戸時代の年齢は、生まれた年を1歳と数える「数え年」で表すのが一般的でした。数え年で計算すると、1844年生まれなら25歳、1842年生まれなら27歳になります。『日本人名大辞典』が享年を「25/27歳」と併記しているのは、このためです。
どちらの説をとっても、20代半ばの若さで亡くなったことに変わりはありません。
最期の場所はどこか
千駄ヶ谷の植木屋で亡くなったとする説
国立国会図書館のレファレンス協同データベースに登録された事例によると、明治22年(1889)に書かれた記録には、沖田総司が江戸の千駄ヶ谷にあった植木屋・柴田平五郎の離れ座敷で亡くなったと記されています。この記録は、近藤勇五郎という人物から聞き取ったものとされます。
浅草・今戸で亡くなったとする説
一方、新選組の隊士だった永倉新八が残した記録には、沖田は「江戸浅草今戸松本順先生宿にて病死」と書かれています。松本順(松本良順)は幕府の医師で、新選組の隊士たちを診察したことでも知られる人物です。現在、東京都台東区の今戸神社の境内には「沖田総司終焉之地」の碑があり、台東区の観光サイトも今戸神社を沖田の終焉の地として紹介しています。
どちらの説にも根拠となる記録があり、最期の地は一つに確定していません。
墓所は港区の専称寺
沖田総司の墓は、東京都港区元麻布の専称寺にあります。墓所の公開状況については寺や区の公式な案内が見当たらないため、訪れる際には事前の確認が必要です。
新選組の歴史を研究者の視点から知りたい方には、次の新書があります。
黒猫の逸話は史実か
療養中の沖田総司が、庭に現れた黒猫を斬ろうとしたものの斬れず、自らの衰えを悟った――。最期の場面として有名なこの話は、作家・子母沢寛の作品を通して広まったものとされます。
この逸話を、当時の記録で確かめることはできません。沖田の最期を印象的に伝える「物語」として受け止めるのがよいでしょう。
沖田総司の写真は残っているのか
本人と確かめられた写真はない
新選組の仲間・土方歳三土方歳三とは違い、沖田総司については、本人と確かめられた写真は見つかっていません。これまでにも「沖田総司の写真が見つかった」という話題が出たことがありますが、いずれも本人と確認されたものではありません。
よく見る肖像画は子孫がモデル
沖田総司の姿として紹介されることの多い肖像画は、歴史研究家の山村竜也さんの解説によると、昭和4年(1929)に沖田家の子孫をモデルに描かれたものです。つまり、本人を見て描いたものではありません。
「美剣士」のイメージはどこから来たのか
小説やドラマ、漫画では、沖田総司はしばしば色白の美しい青年として描かれます。しかし、同時代の人の証言として伝わる話の中には、「色の浅黒い、目の細い」顔だったというものもあります。この証言も伝聞によるもので確かなことはいえませんが、「美剣士・沖田総司」の姿は、後世の作品によって形づくられたイメージと考えられます。
剣の腕についても、日野市は「剣術の腕が非常に高かったと言われています」と、伝聞の形で紹介しています。
もっと知りたい人へ
- 沖田総司の生涯は、人物ページ沖田総司の人物ページで紹介しています。
- 新選組の副長として沖田とともに戦った土方歳三については、土方歳三のページをご覧ください。
- 幕末・明治のほかの人物は、幕末・明治の人物一覧から探せます。
- このページの下では、沖田総司が登場する漫画や小説も紹介しています。作品には創作や独自の解釈が含まれます。
参考文献
本文の根拠とした資料
- 『日本大百科全書(ニッポニカ)』『改訂新版 世界大百科事典』『デジタル大辞泉』『日本人名大辞典+Plus』「沖田総司」(コトバンク掲載)
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース(沖田総司の終焉の地に関する事例)
- 台東区観光サイト「今戸神社」
- 日野市「キーワードでわかる日野」、日野市観光協会「新選組のふるさと歴史館 企画展」紹介ページ
- 山村竜也(歴史研究家)による沖田総司の容貌についての解説記事(Yahoo!ニュース エキスパート、2022年)
※ いずれも2026年10月に閲覧。
関連書籍(このページでは内容を引用していません)
- 大石学『新選組 「最後の武士」の実像』(中公新書、中央公論新社)
- 司馬遼太郎『新選組血風録』(角川文庫)
- 菊地明『沖田総司の謎』(新人物往来社、1978年)