大山捨松
会津藩出身で、11歳のとき岩倉使節団に同行してアメリカへ渡った女性。約11年間の留学を経て帰国し、のちに大山巌と結婚しました。女子教育や社会活動にも関わり、明治時代を代表する女性の一人となりました。
- 時代:
- 幕末・明治時代
- 生没年:
- 1860年~1919年
- 人物:
- 華族・教育支援者
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大山捨松エピソード
どんな人物だったのか
大山捨松は、明治時代の初めにアメリカへ渡った日本最初の女子留学生の一人です。アメリカの大学を卒業し、日本人女性として初めて学士の学位を得たとされています。帰国後は陸軍の重鎮・大山巌の妻となり、社交界での活動や看護・女子教育の支援に力を尽くしました。
生涯と転機
捨松は1860年、会津藩の重臣・山川家に生まれました。幼い頃の名前は「さき」といいます。父は捨松が生まれる前に亡くなり、母と兄たちに育てられました。兄の山川浩は会津藩の家老として、もう一人の兄・山川健次郎は後に東京帝国大学の総長として知られています。
1868年、戊辰戦争の中で会津は新政府軍に攻められます。8歳の捨松も家族とともに鶴ヶ城に籠城し、城内で弾薬づくりなどを手伝ったと伝えられています。会津藩は降伏し、その後、家族は厳しい暮らしを強いられました。
転機は1871年に訪れます。政府は岩倉使節団とともに女子留学生をアメリカへ送ることを決め、捨松はその一人に選ばれました。このとき11歳でした。母は、娘を一度は捨てたつもりで送り出し、帰りを待つという思いを込めて「捨松」という名を与えたと伝えられています。
印象的なエピソード
アメリカでは、コネチカット州ニューヘイブンの牧師・ベーコン家に預けられ、家族の一員として暮らしました。同じ留学生には、後に女子英学塾(現在の津田塾大学)を創設する津田梅子がいました。
捨松は1878年にヴァッサー大学へ入学します。成績は優秀で、卒業式では卒業生の代表の一人として、日本に関するテーマで講演を行いました。1882年に卒業した後は、看護の講習も受けています。
こうして約11年ぶりに帰国した捨松でしたが、当時の日本には、海外で高い教育を受けた女性が活躍できる場はほとんどありませんでした。長い留学生活で日本語も不自由になっており、学んだことを生かす道を見つけられずに悩んだといわれています。
そんな中、1883年に結婚を申し込んだのが、薩摩出身の陸軍卿・大山巌でした。大山は戊辰戦争の会津攻めに加わった人物でもあり、かつて敵として戦った側同士の結婚でした。兄たちは当初反対したとされますが、捨松は大山との交流を重ねた末に結婚を決めました。
結婚後、捨松は鹿鳴館を舞台とする外交の場で活躍し、「鹿鳴館の華」とも呼ばれました。1884年には、看護婦を育てる学校の資金を集めるため、鹿鳴館で日本初とされる慈善バザーを開いています。この活動は、日本で看護教育が始まるきっかけの一つになりました。
その後と最期
捨松はその後も、日本赤十字社での奉仕活動や、津田梅子が開いた女子英学塾の支援を続けました。1916年に夫の巌が亡くなった後も、塾の運営を支えています。
1919年、当時流行していたスペインかぜにかかり、58歳で亡くなりました。病に倒れる直前まで、女子英学塾の今後のために奔走していたと伝えられています。
この人物が今も語り継がれる理由
大山捨松は、幼くして戦争を経験し、異国で学び、帰国後は限られた環境の中で自分にできる役割を探し続けた女性です。慈善活動による看護教育の後押しや、女子教育への支援は、日本の女性の社会進出の歩みの一つとして評価されています。会津と薩摩を結んだ結婚とともに、その生涯は今も多くの人の関心を集めています。