大津皇子

大津皇子

天武天皇の皇子として生まれ、文武に優れた人物として伝えられる皇子。父・天武天皇の死後、謀反を企てたとして捕らえられ、若くして命を落としました。『万葉集』や『懐風藻』にも作品が残されています。

時代:
飛鳥・奈良時代
生没年:
663年~686年
人物:
皇族・歌人

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大津皇子エピソード

どんな人物だったのか

大津皇子は、天武天皇の皇子です。学問にも武芸にも優れ、人柄も慕われた人物だったと歴史書に記されています。しかし父の死の直後に謀反の疑いをかけられ、24歳で命を落としました。『万葉集』や、日本最古の漢詩集『懐風藻』に作品が残されています。

生涯と転機

大津皇子は663年、大海人皇子(のちの天武天皇)と大田皇女の間に生まれました。生まれたのは、斉明天皇が朝鮮半島へ兵を送るため九州へ向かっていた時期で、「大津」という名前は、生まれた場所である那の大津(現在の福岡市付近)に由来するとされています。

母の大田皇女は、持統天皇の姉にあたります。しかし大田皇女は大津皇子が幼い頃に亡くなりました。大津皇子には、2歳年上の姉・大伯皇女がいます。大伯皇女は673年、伊勢神宮に仕える斎王となり、都を離れました。

『日本書紀』は大津皇子について、体格がたくましく、言葉がはっきりとしていて、成長すると学問を好み、特に詩文を愛したと伝えています。『懐風藻』にも、型にはまらない自由な性格で、身分にかかわらず人と交わったため、多くの人が彼を慕ったと記されています。

天武天皇の後継者には、持統天皇が産んだ草壁皇子が立てられていました。一方で683年、大津皇子は初めて政治に参加するよう命じられています。

印象的なエピソード

686年9月、父の天武天皇が亡くなります。その翌月、大津皇子は謀反を企てたとして捕らえられ、翌日、自宅で死を命じられました。妃の山辺皇女は、髪を振り乱し、裸足で駆けつけて後を追ったと『日本書紀』は伝えています。

この事件で多くの人が捕らえられましたが、ほとんどは許され、重い処分を受けたのはわずかでした。そのため、皇位継承をめぐって、草壁皇子の立場を守ろうとした持統天皇側の意図が働いたのではないかという見方もあります。一方で、大津皇子に何らかの動きがあったとする見方もあり、事件の真相ははっきりしていません。

『万葉集』には、大津皇子がひそかに伊勢の姉のもとを訪ね、大和へ帰っていく弟を見送る大伯皇女の歌が残されています。「わが背子を大和へ遣るとさ夜ふけて暁露にわが立ち濡れし」。この訪問がいつのことだったのかは明らかではありませんが、事件の直前だったと考えられています。

また、死を前にして詠んだとされる「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」という歌も『万葉集』に収められています。ただし、この歌が本当に大津皇子自身の作かどうかについては議論があります。

その後と最期

大津皇子の死後、亡骸は二上山に移して葬られたとされています。都に戻った大伯皇女は、二上山を見上げながら、これからはこの山を弟と思って眺めようという歌を詠みました。

皇位を継ぐはずだった草壁皇子は、689年に即位しないまま亡くなります。翌年、持統天皇が自ら即位しました。

この人物が今も語り継がれる理由

大津皇子は、才能にあふれながら若くして命を落とした悲劇の皇子として、長く語り継がれてきました。本人の歌や漢詩に加え、姉の大伯皇女が弟を思って詠んだ歌が『万葉集』に残されていることで、千三百年以上前の出来事が今も身近に感じられます。事件の真相が謎に包まれていることも、多くの小説や研究の題材となる理由の一つです。

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