持統天皇
飛鳥時代を生きた日本の第41代天皇。天武天皇の皇后として夫を支え、その死後は自ら政治の中心に立ちました。孫の軽皇子、のちの文武天皇へ皇位をつなぐなど、古代日本の皇位継承や国家形成に大きく関わった女性です。
- 時代:
- 飛鳥・奈良時代
- 生没年:
- 645年~703年
- 人物:
- 天皇・皇族
持統天皇のおすすめ作品
※本欄にはプロモーションを含みます
持統天皇エピソード
どんな人物だったのか
持統天皇は、飛鳥時代の終わりに即位した女性の天皇です。天武天皇の皇后として夫を支え、夫の死後は自ら政治を担いました。都づくりや法律の整備が進んだ時代の中心にいた人物で、古代日本が国家としての形を整えていく過程を語るうえで欠かせない存在です。
生涯と転機
持統天皇は645年、中大兄皇子(のちの天智天皇)の娘として生まれました。名前は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)といいます。母は蘇我氏の出身で、幼い頃には、母方の祖父が謀反の疑いをかけられて命を落としています。
13歳ほどで、父の弟にあたる大海人皇子(のちの天武天皇)の妃となります。姉の大田皇女も同じく大海人皇子の妃となり、のちに大津皇子を産みました。持統天皇自身は662年に草壁皇子を産んでいます。
人生の大きな転機は、672年の壬申の乱です。天智天皇の死後、大海人皇子は天智天皇の子・大友皇子と皇位をめぐって争いました。持統天皇は夫とともに吉野を出て東国へ向かったとされています。勝利した大海人皇子は天武天皇として即位し、持統天皇は皇后となりました。
印象的なエピソード
686年に天武天皇が亡くなると、持統天皇は即位しないまま政治を取り仕切りました。その直後、大津皇子が謀反を企てたとして捕らえられ、命を落とす事件が起きます。大津皇子は持統天皇の姉の子で、才能豊かな皇子として知られていました。この事件は、我が子・草壁皇子の立場を守るためだったのではないかという見方もありますが、実際の経緯ははっきりしていません。
ところが、皇位を継ぐと期待された草壁皇子は689年に28歳で亡くなります。持統天皇は690年に自ら即位し、天武天皇の時代に始まった政策を引き継ぎました。飛鳥浄御原令の施行や、全国規模の戸籍づくりが進められたのもこの頃です。
694年には藤原京へ都を移しました。藤原京は、中国の都にならって道路を碁盤の目のように区切った、日本で初めての本格的な都とされています。
在位中には、壬申の乱の前に夫と過ごした吉野へたびたび出かけたことが『日本書紀』に記されています。その回数は30回を超えます。
その後と最期
697年、持統天皇は草壁皇子の子である軽皇子に位を譲りました。軽皇子は15歳で即位し、文武天皇となります。持統天皇は退位後も太上天皇として若い天皇を支え、701年の大宝律令の完成にも立ち会いました。
大宝2年(702年)の12月、西暦では703年の初めにあたる時期に58歳で亡くなり、天皇として初めて火葬されたと伝えられています。遺骨は天武天皇の陵に合わせて葬られました。
この人物が今も語り継がれる理由
持統天皇は、夫の事業を受け継ぎ、都と法律を整えて、孫へ皇位をつないだ人物です。律令国家の土台が固まっていく時代の中心にいました。また「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山」の歌は『百人一首』にも選ばれており、政治家としてだけでなく歌人としても親しまれています。